フィギュアスケートの高橋大輔!4回転ジャンプとステップで銅メダル!
四回転ジャンプの重み
皆さんは男子フィギュアスケートって、観戦したことがありますか?
これまで日本はロシアやアメリカの選手に押されて、良い成績を残せない時代が続いてきました。
しかし羽生結弦選手や宇野昌磨選手の登場で、世界の名だたるスケーターたちと互角に戦えるようになり、さらに日本人選手が表彰台の一番上に立てるようになりました。
それはクアドラプルと呼ばれる四回転ジャンプを、軽々と飛べる選手が増えたからです。
これは天性の身体能力を持っていただけではなく、厳しいトレーニングを積み上げてきた結果だと言えます。
彼らの努力は、とても称賛されるものです。
しかし過去、男子フィギュア競技で四回転ジャンプに挑戦する選手が少なかった頃の黎明期を支えた、高橋大輔選手のことを忘れてはいけません。
彼が四回転ジャンプをプログラムに取り入れるようになったのは、2005年頃のこと。
2006年のトリノオリンピックではショートプログラムで5位につけたものの、フリーで果敢に挑んだ四回転ジャンプを失敗してしまい、結果は8位入賞。
成績はふるいませんでしたが、彼の四回転に対する熱意と信念は素晴らしいものでした。
誰もがうらやむステップ
高橋大輔選手は、1986年岡山県倉敷市生まれ。
165cmと、スケーターとしては小柄な男性ですが、どんな音楽にも対応できるステップは世界一と称され、多くの解説者たちは高橋選手のことを「まるでダンサーのようだ」と評しました。
それほど高いスケーティング技術を持っていたのです。
高い柔軟性を持ちながら、キレのあるエッジワーク。
ブルースからロック・ヒップホップまで表現できる力は、高橋選手特有のものです。
同じくフィギュアスケーターだった荒川静香さんは、高橋選手の表現力について、「どんなプログラムでも自分の世界で表現できる人」であることを語っています。
小さいときは引っ込み思案な少年だったそうで、少林寺拳法や野球、アイスホッケーなどをいろいろやりましたが、臆病なせいでどの競技も長続きしませんでした。
そんな中、高橋少年は自宅近くにあった複合スポーツ施設で、フィギュアスケートと運命の出会いをするのです。
自分を表現できる競技
おとなしく話し下手な子どもだった高橋さんにとって、自分の内に秘めた思いを身体で表現できるのは、フィギュアスケートだけだったのかもしれません。
彼がフィギュアを続けるには家族の支えが不可欠でしたが、高橋家はあまり経済的に裕福とは言えない家庭でした。
地元の商店街のひとたちが、高橋少年のために募金箱を置きカンパを募ったと言われています。
「ご近所さん」たちに愛されてスケートに打ち込んできた少年。
彼は中学生の頃からメキメキと頭角を現し始め、全日本ジュニア選手権を制することになります。
その後は世界ジュニア選手権で、日本男子として初めての優勝を飾りました。
努力が実を結ぶ
順調な競技人生を歩み始めたと思われた高橋選手でしたが、シニアに参戦するようになって成績は伸び悩みます。
日本を離れ有名な海外コーチに教えを仰ぐも、なかなか成果は得られませんでした。
そんな中2005年の世界選手権に出場。
総合15位の結果に終わりました。
この大会が終了後、ニコライ・モロゾフ氏にコーチを変えました。
そうして、肉体的な強化とステップ技術の向上に力を注ぐことになったのです。
そのかいがあって、続くNHK杯では男子シングルとして世界で初めて、ステップで最高難度レベル4を獲得しました。
高橋選手はトリノオリンピックを経験し、その後のNHK杯で優勝。
久しぶりにフリーで四回転ジャンプも成功させました。
それからの彼の目標は、バンクーバーオリンピックとなりました。
2010年、カナダ・バンクーバーで行われたオリンピック。
ショートプログラムで高橋選手は90点台をマークし、「皇帝」と呼ばれたロシアのエフゲニー・プルシェンコとわずか0.6点差で3位につけました。
フリーの冒頭では、失敗を恐れず四回転トゥループに挑戦。
大きく転倒してしまいました。
これまでずっと磨いてきたステップの技術は素晴らしく、ステップと演技構成点は出場した選手の中で最も高い評価を受けることになりました。
総合得点で4位のステファン・ランビエールを0.51点抑え、男子シングルの選手として史上初めて、冬季オリンピックの舞台で銅メダルを授与されることになったのです。
同じく四回転ジャンプに挑んだプルシェンコ選手と、がっちり握手をする姿も目撃されています。
高橋選手の努力が実を結んだ瞬間でした。
次の目標が定まらない
バンクーバーオリンピックから1か月後の世界選手権でも優勝し、アジア初の世界チャンピオンになりました。
その後は相次ぐケガの影響で、あまり成績はふるいませんでした。
高橋選手自身も、オリンピックでのメダル獲得と世界チャンピオンになったことでモチベーションが下がり、現役続行を迷ったと語っています。
次の目標であるはずのソチオリンピックにも前向きになることができず、その折に発生した演技の曲を担当していた作曲家のゴーストライター問題なども重なって、残念ながらソチ本番では総合6位入賞に留まっています。
オリンピック二連続メダル獲得は逃したものの、高橋選手の輝きは褪せるものではありません。
アイスダンスに転向
高橋選手は現在、男子シングル生活を今年12月の全日本選手権をもって終了とし、アイスダンスに転向を表明。
2020年1月から拠点をアメリカに移し 、村元哉中選手とペアを組むことを宣言しています。
次のオリンピックを目指してほしいところではありますが、それよりもまず高橋選手の少しでも長い現役生活を望んでいます。
今ではどんなプログラムでも四回転ジャンプを数種類組み込まないと、高得点をとれなくなった男子フィギュア。
ほんの数年前までは、大きなリスクを冒しつつも果敢に四回転ジャンプを飛ぶことを選び、結果が伴わなかったとしても、そのチャレンジそのものが称えられていたのです。
技術の過渡期の真っただ中で大変な苦労をした高橋選手は、アイスダンスに競技を変えたとしてもきっと成功すると思っています。